真面目すぎるひと

 

自分は真面目すぎるんだろうなぁなどと考えながらふと前回の記事を見たら、全く同じような内容が書いてあった。

どうやら自分は真面目すぎるらしい。

 

 

3月から仕事で業務入替があって、現在レジ研修を受けている。

ある1人のパートのおばちゃんが、電子決済やら色々複雑化した新レジに大きな不安を抱えてるらしかった。

今日そのおばちゃんが自分の後に出勤してきて、ちょうどそのタイミングでトレーナーさんが休憩に入ったので、残ったパート4、5人で教え合いっこしようという話になった。

それでロープレが始まったんだけど、いきなり応用的なことをどんどんやり始めて、明らかにそのおばちゃんは混乱していた。

どう見てもそんな応用的なことをやる段階に到達していない。

「私もうこんなん無理やわ…」と落胆するおばちゃんに、周りは「慣れやで、慣れ!」と笑って、あれはああで、これはこうでとレジを目まぐるしく操作する。

おばちゃんの表情が消えていく。

その時レジ1台しか開けてなくて皆そこに集まってたんだけど、なんかもう見てらんなくて、トレーナーさんを呼びに行って残り2台のレジを開けてもらった。

居ても立ってもいられなかった。

分かるやつは分かるやつで勝手にやっとけよと思って。

おばちゃんにマニュアルあるよと教えて、一緒に1項目ずつ見ていった。

そのうちにトレーナーさんが戻ってきて、おばちゃんに丁寧に教えてくれた。

それでやっと自分も安心した。

 

「分かる分かる」と言って自分たちのペースで進めていく人。

そこで固まってる人になんで気付けないんかな。

研修に割ける時間が少なくて、トレーナーさんの話を聞いて必死に覚えようとしているのに、急に割り込んできて「これは分かるやろ」「これはこうだよな」と自分のペースでどんどん操作していく店長。

自分のことしか見えとらんやん。

 

ハナから「私分からんし!」とかゆうて覚える気もないような人間はもうすっ飛ばしてええと思うけど、そうじゃなくて、覚えなきゃ覚えなきゃって必死になってる人をすっ飛ばしたらアカンやろ。

分かる人間のペースで教えたって分からんに決まっとるやろ。

 

初めて「この職場嫌だな」と思った。

勤め始めてから一度も思ったことなかったのに。

 

明日からレジが変わってお客さんの前に立つのに、自分はずっとベーカリー業務の研修を受けていてレジの知識が入っていない。

昨日やっとマニュアルをもらって、それを読み込んで予習して、今日の4時間で全部叩き込んでやろうと思って臨んだ。

トレーナーさんの話を聞きながらひたすらにメモをとり続けていたら、「必死じゃん」と言われた。

そら必死になるやろ。

時間割いて教えてくれてんねんで。

自分が特殊なんか?

メモ取りながら聞くの普通ちゃうんか?

 

 

真面目だねと言われることが多い。

30超えて、自分は真面目なんだなぁと思うようになった(あまりにも言われるので)。

別段自分が人より真面目だとは思っていない。

やろうと思うことをやっているだけだ。

 

店長やトレーナーさん相手にタメ口で喋るパートや、授業参観の親子交流で親同士ペチャクチャ喋りたくってる大人を許せない自分は、おかしいんだろうか。

新社会人くらいの頃、当時お世話になっていたカウンセラーの先生に「あなたは危険の危に真面目と書いて、危真面目(きまじめ)だ」と言われたことがある。

当時は今よりもっと余裕が無かったとは思うけれど、今もそうなんだろうか。

わからない。

 

いい加減な人間にはなりたくない。

「いい塩梅」という意味の「いい加減」なら良いけど、無責任で自由奔放な「いい加減」は嫌だ。

とはいえ、もっとゆるくしなやかに生きたい。

ラフでゆるいものが好きだ。

ガチガチな心はポキッと折れてしまうから。

無理矢理周りに合わせてユルさを演出するのではなく、ふっと自然に肩の力を抜けるような、そんなゆるさが欲しい。

自分みたいな人間は環境から受ける影響がバカでかい。

環境をしっかり自分で選ばないと。

無いなら作らないと。

自分が肩の力を抜いて過ごせる空間を。

 

 

 

 

 

共通目的

三年前の自分の記事を読んで

あぁ 紛れもなく自分だなぁと

妙な心地よさを感じる

 

三年経って環境は激変して

当時の心境とはまた違った日常を生きている

 

 

母親という立場になり、保護者の集団に放り込まれる。

約二年、いろいろな行事に参加したり役員の仕事をしたりしたけど、結局自ら歩み寄って行こうという気にはなれなかったな。

高校のクラス替えで居場所をなくして学校へ行けなくなった、あの日の自分と然して今も変わりはない。

出来上がった関係性に後から入っていくのは嫌いだ。

自分で壁を張っているのは分かってる。

でも仕事でも学校でも、その壁を崩すことは出来ないまま月日が過ぎた。

これからもきっとそれは変わらない。

 

大人になってからできる友達というのは、共通の目的を持った相手であることが多いと聞いた。

共通の趣味であったり、親であれば子育てという目的であったり

私がママ友を作る気になれないのは、そこに共通の目的を見出せないからなんだと思う。

 

 

今日は授業参観。

親子でボッチャという競技をすることになった。

6人グループで親対子どもの対決。

ローテーションで両チームが交互に一人ずつボールを投げていくのだけど、3ゲーム目くらいで大人はダレて体育館の壁際でぺちゃくちゃお喋りに勤しんでいた。

子どもチームは投げ終わって大人が投げるのを待っている。

そんな状況にもうめちゃくちゃイライラしてしまう。

単調で飽きるのは分かるけど、同じ時間空間を親子で共有することが目的なんじゃないのかって。

子どもが気まずそうに待ってるの見て何も思わんのかって。

そんなイライラを共有する相手は自分にはいなくて、ただ距離を置いていた。

結局のところ浮いているのは自分なのだ。

神経質すぎるのか。真面目すぎるのか。分からない。周りが適当すぎるようにしか見えない。けどたぶん違う。自分が神経質すぎる。

ますます関係を築きたくないと思ってしまう。

自分はどうにも、そういう意味で「親」にはなれそうにない。

 

こういうことを色々考えてしまうから保護者の集まる場所へ行くのは嫌いなんだ。

 

どこへ行っても、私だけピリピリしている。

そんな気がする。

もっと適当に生きろよって言われてる気がする。

適当になんか生きてやるもんか。

でももっと肩の力を抜いたほうがいいんだろうな。

それができたら苦労しない。

自分が大事だと思うものは自分で守り抜けるように。

 

集合写真の片隅で

目をそらして足元をふらつかせながら逃げるように帰っていくあなたはきっと私の心をそのまま映しているのだろう

ごめんね 私
安心して向き合えないね



いつまでたってもこの世界に馴染めない
フィールドから切り取られる
集合写真の片隅に貼り付けられるみたいに
私はそこにいない

同じ世界で話ができる人が
ひとりでいいから欲しい
ひとりでいい
集合写真の片隅で



この不安の意味とか
致命的に間違っているような感覚とか
そういう部分で通じ合える人は
いないもんかなぁ




人を好きになった
この世界に自分を繋ぎ止める存在だと思った
けれどそれは理想像に過ぎなくて
また頭で恋愛していたのだと気づく
もうすぐ遠くへ行ってしまうので
良かった、と思う
終わりは救いだ
終わりがないことは絶望でしかない
相手のことは好きだ
出会えて良かったと素直に思う
大切な気づきをもらった
離れればそのうち忘れていく
たまに思い出して好きだったなぁと感傷に浸る
そういうもんなんだろう



自分の中に棲んでくれ
私が世界から切り取られても
そこに君がいれば
私は世界を捉えられるだろう

バーチャルリアリティー

コロナで危機感を感じるかというと
正直なところほとんど現実感がない
一番ショックを受けたのは志村けんさんが亡くなったことで
それが自分にとって一番リアルだった

とはいえ、日に日に増える感染者数も
連日報道される内容も
実感としてはずっとぼんやりしている
「コロナやばいよね」と言われれば「やばいよね」と言うし
一応在住県の感染者状況もチェックしているけど
それは仕事上知っておいた方が良さそうだからという理由だけで
そうでなければ興味を持たないのが実状だ



ネットの世界に生きていた頃
雷でネットが繋がらなくなったときは
命の危機を感じるくらい心もとなくなった
確かな実感があった

自分にとってこの現実世界は
きっとまだまだ遠いのだろう

ネットの世界から距離を置きつつも
現実世界に馴染めないでいて
一人夜風に当たる瞬間が一番落ち着く
なんとなく居場所はない気がしている
ネットの世界には確固たる居場所があった
歓迎されて求められて
そこで得た安心感を現実世界まで持ってこられたら良かったけど
残念ながら現実世界とネット世界の自分は別物で
ネット世界の自分が確立されればされるほど
現実世界で生きられなくなるだけだった
身体は現実世界にあるから
結局のところ『ここ』に実感がなければ
生きてはいけない


時々『生きていけなさそうだ』と感じる瞬間がある
未来を生きている自分をうまく思い描けないし
どこに向かっているのかわからない


自分と同じ世界を生きている人は
いないのかな
ネットから離れようとしていて
でも現実には馴染めないでいるような
そんな人はいないのかな
同じ世界を共有してみたいよね
それだけで少し
呼吸が楽になる気がする

あり得ないものばかり願ってやまないんだ

仮想恋愛

人を好きな自分に憧れて
あなたを好きだと言う
実のところ
あなたを好きだと言う自分が好きなのだろう

あなたを好きだと言いたい
そうして少しでもあなたの気を惹ければ
私は満足なのだ
私という人はきっとそうなのだ

未熟で卑しい人
それでいいんだよ
今は
それが私だと受け入れることが
まずなによりも大切なこと
無条件の全肯定を
自分に


嘘つきで
適当な言葉で場を繋いで
プライドが高くて
臆病で
まともに人と向き合うことができない
それが私
それでいいの
正しいとか間違ってるとか
良いとか悪いとかなくて
それでいいの
無条件に全肯定してあげるの


誰に失望されようと
誰が離れていこうと
誰に非難されようと
偽りないことそれだけが
一番大切なの

人間嫌い

自分の中に渦巻く強いエネルギーを外に出して出しきって死にたい
それは『不安』かもしれないし『恐怖』かもしれないし『憎しみ』かもしれないし『寂しさ』かもしれない
いずれにせよ負の感情であることに変わりはない

息を吸い込んで口を開けば自分の中にあるものが当然のようにそのままの形で外に出てくれればいいのに
どうしてこんなにぐちゃぐちゃに捻れ曲がって出てくるんだろう
そのうち喉につっかえて息もできなくなる


ギターを弾いて好きなように歌う
歌詞はなんでもいい
メロが心地よければ
息を吸い込んで口を開いて自分の中にあるものをそのまま外に出すイメージで歌う
自分にとって歌はそのためにあるのかもしれない
言葉で口語でそれができないから
代わりに歌というツールを借りる
音程があり歌詞がある媒体を借りる
何もなければ声を発することも難しいから

こんな風に当たり前に会話ができるなら
人といるのも楽しいのかもね
人といても自分が確立されるなら
楽しいのかもね
でも人間が嫌いだ
人間が好きだと思い込んでいた
何より人と関わりたいのだと信じていた
でもやっぱ人間嫌いだよ
きっと

汚いままでいたい
綺麗に見せかけて生きたくない
反吐が出るほど
自分のことだけ考えて生きてきた
本当にそうか?
そうだと思うよ
自分が思っていたよりずっと
他人のことなんてどうでもいいんだ

日々

空間管理能力がゴミになる自分のことも
頭の中で予行練習繰り返す自分のことも
嘘ついてばっかりの自分のことも大嫌いだから
人といるのが嫌いだ

人と接すると自分の嫌なところが膨らんでいって
自分からどんどん遠ざかっていって
自分をどんどん嫌いになるから
人といるのが嫌いだ

けれど人と関わって泥を飲み込むような思いをすることが
自分と向き合うきっかけになる
だから人と関わることは重要だ
私は自分を知りたい



他人のことにも世界のことにも
さして興味を抱けない
けれど他人と接することで自分がどう反応するのか
世界に触れることで自分の内面がどう揺れるのか
それらはすごく興味がある
だからひとりではいられないし
こんな場所に閉じ籠ってもいられない


自分という人間は冷酷だ
見せかけのホスピタリティはいずれ剥がれる
理想像を口先で語るのはやめて
事実現実にフォーカスして
私利私欲にまみれて生きている自分そのままで
人に世界に触れて生きろ
ファンデーション塗りたくってひび割れてる自分より
しみだらけの汚い素肌の自分の方が
ずっとずっといい